空の青が嫌いだった。
自分の髪色が嫌いだった。
その青は、あの人を連れて行ってしまうから。
カグツチの空から、冷たい雨が降り注ぐ。
それを僕はガラス越しに見ていた。
雨の日は頭が重い。特にこのカグツチの雨はそれが如実に現れる。
そろそろ出かけなければ。
椅子から立ち上がると、手元のティーカップが微かな音を立てた。
気持ちが重い。
憂鬱などではない。それはあり得ない。
今回の任務は自分から名乗り出たのだ。自分がやらなければならない。
―――オリエントタウンで凶悪犯が人質を連れて逃走した。
事件はその一報から始まった。
詳細はすぐに伝えられた。
―――場所はオリエントタウンの通称『ゴミ箱』。東洋系マフィアの幹部が殺害され、その犯人がオリエントタウンの一般街へ人質を伴って逃走。人質は魔素中毒者。その他一般人への被害は無し。
僕の上司は取るに足らないその事件に頓着していなかった。
僕が報告に行った時、上司は渡した報告書を見るなりそれを机に投げ出した。
「連中の尻拭いは連中でやるだろう。我々が関与する必要はない」
それは当然のことだ。マフィアの内部抗争。おそらく幹部を殺した者はマフィアが始末を付けたがる。そこに統制機構が無理に関与することはない。事件を聞いて捜査はするが、あくまで形式だけだ。
だが、それでも・・・・僕はこの事件の捜査担当に志願した。
「その必要はない。この件は別の者に担当させる」
にべもなく、上司―――レイ大佐は言った。
「貴様は折角今の地位に昇格したんだ。そんな小さな事件に関与する必要はない」
大佐は表情一つ動かさない。まるで氷のように。
いつも大佐の考えは正しかった。けれど僕は引き下がるわけには行かなかった。
「僕は事件に大きいも小さいもないと思っています。大佐、お願いします」
「個人的理由、だな」
断定的な言葉。
それは僕の本心を突いていた。反論できなかった。
大佐は小さく鼻で笑った。
「まあ、いい。ならばこの件はトウヤ少佐に一任する。以後経過の報告は要らん。必要な報告は、完了報告のみだ。いいな」
そう言って、大佐は別の書類に目を落とした。
沈黙が僕に退出を強要する。
「・・・失礼します」
言いようのない焦燥感に苛まれながら、僕は大佐の執務室を後にした。
それからの数時間、僕は自分の執務室にいた。
ずっと考えていたんだ。これからどうすべきか。
答えはもうずっと前から出ていた。
ユキを助けてあげたい。そのためには、あの二人を―――報告書の犯人と人質を、追わなければならない。
ユキ、そしてシュテル。
僕が彼らと出会ったのは、まだ僕がカグツチに配属されてばかりの頃で、僕はまだ少佐ではなかった。
当時の僕の職務は専ら街の裏通りの治安維持だった。僕が来る前は保安部隊とは名ばかりの、腐敗と不正にまみれていた。犯罪者たちと通じて金銭を要求し、その見返りに便宜を図る。正義と秩序の名の下に集まった統制機構の衛士の中には、少なからずそういう輩がいたのだった。
僕は前任者から任務を引き継ぐと、裏社会との蜜月の関係をキッパリと断たせた。
保安部隊はあるべき姿へと変わっていった。人々の平和を守るものへと。
任務の現場には僕も直接足を運んだ。
カグツチの中でも、最も治安が悪いといわれる一画。『ゴミ箱』と揶揄される界隈。悪と犯罪と頽廃が蔓延る通り。そこが僕らの専らの職場になった。
前任者たちの怠慢のせいで、この区画には本来助けられるべき弱者が意味もなく命の危険に晒されていた。
魔素中毒者もその中の一つだ。
統制機構には彼らを収容し、治療する為の施設がある。彼らをそこに連れて行けば、多くの命が救われる。
思ったとおり、その一画には多くの魔素中毒者がいた。そしてその殆どが既に末期の患者ばかりだった。
もっと早く手を打っていれば・・・そう思った矢先に、訪れた寂れたアパートの一室に、少年とも少女とも分からない人物がいた。
儚い面影と、アンバランスな気配―――ひと目で魔素に侵されていることが分かった。
でもそれ以上に、僕はその人に惹き付けられていた。
突然現れた僕に対しても、その人は怯えることはなかった。僕の視線を見返して、ただ黙って僕の心を見透かしているかのようだった。
「・・・君はここにいるべきじゃない」
頭の中は真っ白だったのに、僕は口走っていた。
え?とその人が少し驚いたように僅かに目を開いた。
「僕は統制機構の者だ。大丈夫、君を助けに来たんだ」
僕の言葉に、その人は戸惑ったような表情を見せた。
部屋の中に目を向けると、小さな机の上に二人分の食事が見えた。豊かではないけれど、小さなぬくもりを感じさせた。
僕は戸惑うその人に手を伸ばした―――
「ユキ!」
不意に背後から張り詰めた声が聞こえた。
振り返ると、長身の男が廊下に立っていた。
鮮やかな青。空の青に彩られていた。その顔は、驚愕というより・・・殺気を放っていた。
「てめぇ、何してやがる!」
男は走り寄ってくるなり、僕を押し退けるとあの人を庇うように立ちふさがった。その瞳に睨まれて、何故か思わず背筋が強張った。
「この人は・・・魔素中毒だ。知っているんだろう」
僕は彼を睨んだ。暗い瞳が、僕の視線と交錯する。左右の目の色が違っていた。けれど彼から感じる異様な違和感はそのせいではないと直感した。
「統制機構にゃ関係ねぇよ。帰れ」
彼は僕の服装を一瞥してそう吐き棄てた。
不信の眼差し。僕はそれを弾き返したかった。
「我々は一般市民を守る使命がある。魔素中毒の方も同じだ。この人は魔素に侵されてる。ちゃんとした治療施設で治療を受けさせるべきだ。」
僕は言った。しかし心の中では分かっていた。ここの住人たちは、こうした「権威」を何よりも嫌っていることを・・・
案の定、男は侮蔑の笑みを浮かべた。左右非対称に唇を引き上げた笑い。
答えは明白だった。
「てめぇらにユキをどうこうさせるつもりはねぇよ」
その男の目は笑っていなかった。明らかな殺気。隠すつもりはないようだった。
けれどそれを制したのは、男の後ろに護られた人。
「待って兄さん」
ユキと呼ばれたその人は、男の袖を引いた。それだけだった。
兄さんと呼ばれた男は、僅かにその人の方を見た。そして僕の方を。
「―――お前は部屋で待ってろ」
後ろに向かって言うと、その男は強引にドアを閉ざした。
「兄さ―――」
抗議の声がドアによって遮られた。
僕はその男が何をしようとしているのか、もう少し熟慮すべきだった。
振り向いた瞬間、男は僕を思い切り蹴飛ばした。
「な・・・っ!?」
とっさに受身を取って、身構える。
間髪入れずに男が飛び掛ってきた。手にはいつの間にか、巨大な剣を持って。
明らかな殺意。
「ばかなっ、僕は統制機構第三師団の―――」
「知るかっ」
僕は抜刀し、男の斬撃を受け流し―――損ねた。
直撃は避けたものの、想像以上の力に思わず体勢を崩してしまった。
そこに追撃が迫った。ギリギリそれを避ける。
「お前は、あの人の―――兄なんだろう。魔素中毒と知ってながら・・・まともな治療を受けさせないなんて!」
「だからなんだ」
「愚かだと言っている!」
「てめぇの知ったこっちゃねぇよ」
僕は愛刀ユキカナデを再び納刀した。そして腰をやや屈めて構える。
「ならば力ずくでも連れて行かせてもらう。それがあの人の為だ!」
今度はこちらからの反撃。神速の抜刀術は、第三師団でも他に及ぶ者はいない―――大佐を除いては。
だがそのユキカナデの一撃も、相手の大剣が盾となって阻んだ。
「勝手なこと言ってるんじゃねぇ!ユキを連れて行かせてたまるか!!」
言葉と共に怒気が衝撃波のように放たれるような錯覚。
だが僕は怯まなかった。怯むわけにはいかなかった。
「愚かな!」
ギリギリと、ユキカナデと相手の大剣が互いの刃をこすり合わせる。
力の拮抗の刹那。僕とその男はしばし無言で睨みあった。
―――この男には負けたくはない。
どこからか湧き上がる妙なその気持ちが、ユキカナデを握る手に一層の力を込める。
と、その時唐突に相手の力が緩められた。そのせいで僕は前のめりにバランスを崩してしまった。
「―――しま・・・っ」
気付いて体制を整えようにももう遅い。
相手に虚を突かれてしまった。迂闊だった。激昂しているように見えて相手は僕をよく見ていた。頭に血が昇っていたのは僕だった。
バランスを崩した僕の上体に、容赦ない大剣の攻撃が打ち込まれた。
幸い、相手の大剣はその大きさゆえ至近距離では切り裂くことは出来ない。だが刃の腹を叩きつけることはできた。
僕は強かに打たれ、無様に地面に倒された。
倒れた僕の上に飛び掛る影。男が大剣を振りかざしていた。
―――やられる!
無駄とは知りつつ、ユキカナデで受けようとする。駄目だ、間に合わない。
胴体が真っ二つに切り払われるイメージが脳裏に浮かんだ。
だがそれは現実にはならなかった。
男が大剣を振りかぶった状態で静止していた。
彼の背に、ユキと呼ばれた人がしがみついていた。
開け放たれたドアが、風で軋んだ。ただ、それだけだった。
誰も何も言わなかった。男が、大剣を下げた。
ユキは俯いたまま、その男の背から離れなかった。
男は既に僕の方を見てもいなかった。ユキの方を肩越しに振り向き、その表情が見えなかった。
チリチリと、何かが焦げる音が聞こえた気がする。
焦げ付き始めたのは、僕の心だったか。
やがてユキが男の背から離れ、男がユキに向き直った。そして俯いたユキの頭を優しく撫でる。
口の中がカラカラだった。気持ちが悪い。何故か泣きたくなった。
「―――僕の負けだ。ここは退かせてもらう」
敗北。それは剣の腕だけではなかった。
ユキに向けられたであろう表情。ユキが彼を見上げる仕草。
胸に黒い炎が灯った。
僕は負けを口実にその場を去った。居た堪れなくなった心がそうさせた。
「た、隊長・・・!?」
隊の部下が僕の姿を見つけて声をかけてきた。
僕は彼を押しのけるように横をすり抜けると、振り向くことなく小さなアパートを後にした。
統制機構支部に戻った後、僕は必然的に・・・個人的に彼らについて調査していた。
―――統制機構の個人データバンクに照合なし。無登録住人の可能性大。
予想通りの結果だった。あの裏通りで暮らしていて、登録している住人のほうが少ない。
データに登録されていないなら、街に流れる情報を得ればいい。
統制機構の諜報部は優秀だ。カグツチのことであれば、この支部の諜報部はどんな情報でも吸い上げてきた―――それがたとえ、本人がひた隠しにしたことでさえも。
―――シュテル。東洋系マフィア『K虎』の戦闘要員。両親は死亡。叩き上げの一匹狼。喧嘩の腕っ節だけでのし上がってきた。
―――ユキ。シュテルの弟。母親の胎内で魔素中毒になった。その影響で男女を兼ね備えた性を持つ。
シュテルとユキ。裏社会では決して珍しくは無い、不遇の兄弟。
何故こんなにも彼らが僕の頭を占拠するのか。
一つには思いも寄らない敗北があっただろう。僕は少なからず自分の実力に自信があった。だがそれが崩されたのだ。屈辱を晴らす。その思いも勿論あった。
だがそれだけではない。
ユキ―――あの人を救いたい。
いつしかあの人の顔が僕の目に焼きついて離れなかった。
諜報部の報告書には、「両性具有」の記載があった。僕は驚かなかった。あの人の風貌を思い出せば、納得できた。
その体質がどれほどあの人を苦しめてきたのだろう。あの人は自分を誰の目にも晒さないよう生きて来たに違いない。信頼できるごく一部の人間だけに明かしているその事実―――それを、公務という名目で知ってしまった僕を、僅かな罪悪感と醜悪な優越感がない交ぜになって襲う。そしてそんな自分が嫌になる―――
けれど、思いは変わらない。あの人を、ユキを思う気持ちは。
優しくて繊細そうな人。あの人はあの場所にいるべきではない。魔素中毒を抜きにしても、あの場所はあの人を蝕むしかない。そうにしか思えなかった。
けれどあの人を連れ出すには・・・シュテルが赦さないだろう。
シュテル―――立ちはだかる壁だ。
対峙して時折垣間見えた、あの狂気にも似た激情。かといって愚鈍ではない。彼を凌ぐには―――己がもっと強くなる必要があった。
僕はユキを救う為に、シュテルを倒す為に、さらに日頃の訓練を重ねた。術式能力や基礎戦闘力は人並み以上だと自負している。だがそれでは足りない。救う為には倒す為には、もっと強くならなければならない。
その後も、僕は何度も彼らの住まうオリエントタウンに足を向けた。そしてその度に、願いを適えることが出来ないでいた。
どうしても届かない。ユキにも、シュテルにも。
どんな言葉で諭したとしても、ユキは微笑んで首を横に振るだけだった。
どんなに腕を磨いて挑んでも、シュテルは軽くあしらうように僕を負かした。
それでも僕は諦めたくなかった。何度でも挑み続けた。
だがどうしても届かない。ユキにも、シュテルにも。
その焦りが積もり続けるのとは逆に、シュテルはある日を境にさらに恐ろしいほどの力を持つようになった。
―――魔道書だった。
もちろん、全ての魔道書は統制機構が法と秩序の下、管理しなければならない。彼が魔道書を持っていることは違法だ。
彼から魔道書を回収する。彼らを追う名目がまた一つ出来た。
しかしそれからしばらくすると、彼らの姿が通りから消えた。
諜報員の話では、どうやらシュテルがマフィアの中で地位を得たようだった。故に、下っ端のいるような界隈からは姿を消したのだ。いるとしたら・・・ゴミ箱と呼ばれる裏社会の、さらに奥。
それでも僕は諦めたくはなかった。半ば盲執的に彼らを追おうとした。
だが『K虎』の本拠区画に向かおうとしたその前日、僕は大佐に呼び出された。
―――寝ている虎の尾を踏むな。
僕に忠告した大佐は、それ以上何も言わなかった。僕はその日の夕方、オリエントタウン地区の治安担当から外された。
何も出来なくなってしまった。
諜報部からも主だった情報が入ることも無くなり、僕は取り残されたような錯覚に陥った。
僕はそれを取り払う為に、ひたすら任務と訓練に打ち込んだ。
もちろん僕の使命は統制機構の一員として世界の秩序を護ることだ。その任務に誇りを持っている。けれどどうしても、日々を無為に過ごしている錯覚がなくなることはなかった。
焦る日々。どうしようもない日々。
ユキはどうしているだろうか。あの暴力と無法と理不尽が支配する街の片隅で、健気に生きているのだろうか。それとも・・・・
取り残されてから幾日過ぎたのだろうか。
ある日、僕たち統制機構にある報告が寄せられたのだ。
―――場所はオリエントタウンの通称『ゴミ箱』。東洋系マフィアの幹部が殺害され、その犯人がオリエントタウンの一般街へ人質を伴って逃走。人質は魔素中毒者。その他一般人への被害は無し―――
犯人の名はシュテル。人質の名はユキ。
僕は迷わずその捜査担当部隊の指揮官に名乗り出たのだった。
「目標、依然区画C3から2に向かって逃走中。βチームは至急区画C33へ急行願います」
「αより本部、応援要請!C2オキツ通りにて交戦中!目標はランクS級の魔道書を所持!繰り返す、目標はランクS級の―――」
通信コムからは慌しい声が交錯して響いた。
僕は隊員たちを散開させると、ひとりC2区画・・・富裕層の最終区画を貫くオキツ通りに向けて走った。
犯人―――シュテルは既に統制機構の衛士を何人か斬っていた。故にこれはただの追跡ではなくなっていた。統制機構反逆者の討伐任務だ。故に、捜査人員が大幅に増員された・・・僕にとっては厄介なだけだったが。
衛士に被害が出た事を、レイ大佐は怒るだろうか。それでも僕は構わないと思ってしまっていた。何よりも僕には今、目的がある。
何故シュテルが『K虎』を抜け、ユキを伴って逃げているのかは僕には分からない。そして、彼が何を目指しているのかも。
それでも、ユキにとって良い状況でないことは分かっている。そして人質とはいえ、統制機構にとってはユキを助ける理由など何処にもないことも。
ならば僕は、他の衛士よりも先んじて彼らに追いつかなければならなかった。
シュテルを倒し、ユキを助ける。その為だけに。
整然と立ち並ぶ商店街を抜けると、開けた場所に出てきた。オキツ通りだ。
早朝の町並みは僕以外に人影を見せない。
C3区画のほうに意識を走らせる。微かな喧騒。湿った空気に乗って流れる血と硝煙の匂い。
やがてアスファルトから立ち上る朝霧の向こうに、折り重なるような二つの影を見た。
―――来た。
僕は通りの真ん中に立って、待った。
「久しぶりじゃねぇか、てめぇ」
現れた影の一つ―――シュテルが笑った。あの、唇の端を片方だけ引き上げる笑い。目は笑っていない。
「トウヤ」
もう片割れの影―――ユキが僕を見て呟いた。小さな驚きに揺れる瞳が僕を捉える。
二人ともボロボロだった。
「こんなところで何してやがる。てめぇも邪魔しにきたのか?相変わらず懲りない野郎だな」
シュテルが大剣を肩に担ぎ、ユキを庇うように立つ。刀身と全身が血に塗れていた。幾つもの傷が赤く花を咲かせていた。それでも彼は揺らぎもしなかった。
僕も揺るがない。揺らぐ訳にはいかない。
「決まっているだろう。僕の目的は変わらない。・・・ユキを連れて行く。お前と一緒にいるとユキは幸せになれない」
刹那、ユキと僕の視線が交錯した。
「そうか」
シュテルはわざとらしくため息をついた。
「じゃあ死ねよ、てめぇ」
言うや否や、大剣が振り抜かれる。
「来い!」
「兄さん!」
僕とユキの声が重なる。
シュテルがユキから離れ、突っ込んでくる。
僕は振りの大きいシュテルの剣を後方に跳んでかわした。
ユキカナデで奴の胴を切り払う。それは弾かれた。予測済み。次の手。
氷の術式を解放した。ユキカナデが与えてくれる力。今まで使いこなせるか自信の無かった能力。今までシュテルを倒す為に磨き続けた希望。
シュテルをめがけ、氷の刃が飛んでいく。それを相手は上体を捻ってかわそうとした。
そこが狙いだった。
反り返った上半身に、ユキカナデの刃を叩きつける!
「―――ッ!」
シュテルの顔が歪んだ。当たった。ユキカナデがシュテルの肩を切り裂いていた。
「まだだ!」
僕は相手が怯んだ隙に、剣を持つ相手の腕を氷結させる。もちろん、剣ごとだ。
「ちぃっ」
「もらった!!」
剣で僕の攻撃を受ける事は出来ない。僕は力を込めてユキカナデを振り下ろした。
「兄さん!!」
ユキの悲痛な声。一瞬心が痛んだ。だがもう遅かった。
シュテルの体を、氷の刃が切り裂く―――その寸前で、僕の腕に鈍い衝撃が走った。
ユキカナデの刃をシュテルが片手で握っていた。
白刃を素手で掴むなど狂気の沙汰だ。刀を引かれればそのまま掌を切り裂かれてしまう。
だがシュテルの手は、まるで化け物のそれのように黒く大きく変貌していた。指先が巨大な鉤爪となり、ユキカナデを掴んでいた。
魔導書。もたらされた術式の力。
「甘ぇ!」
今度はシュテルの番だった。彼の剣ごと凍りつかせた腕は、あっさりと氷を砕いて自由になっていた。僕はユキカナデを捉われたまま、大きく中空に投げ飛ばされる。
さらに僕を追うように、シュテルの腕から生えた巨大な影が広がった。その影の中には無数の赤い眼がギョロギョロと蠢き、一斉に僕を見た。
「・・・・ッ!?」
僕はその時初めて言いようのない恐怖を感じた。本能の底に刷り込まれた恐怖―――畏怖。
人間は他の動物以上に闇を畏れた。故に火を使う事を覚えた。人間の文化には必ず光が伴う。闇を畏れ逃げ続けることこそが人間の歴史―――そんな一説が過った。
―――闇。
シュテルが術式によって呼び出したのは、まさに生きた闇だった。
今までもシュテルは術式の力を使ってきた。だが、これほどまでに大きく膨れ上がった闇は初めてだった。
今や片腕の闇がシュテルの体を半ばまで包み込んでいた。
牙とも鉤爪ともつかない無数の棘が僕めがけて伸ばされる。
「させるかっ」
ユキカナデは取られたままだ。だがそれでも氷の刃を召還する事は出来る。
僕は闇の棘めがけて氷の刃を飛ばした。
ぶつかり合い、砕ける音。質量を持たないはずの闇が氷を遮り弾いた。だが氷の刃達はその煌めきで闇を切り裂いた。
僕とシュテルは同時に動いていた。
シュテルはユキを抱え、オキツ通りを上層部へ向けて走った。僕はそれを追う。
このまま富裕区画を抜ければ、その先は・・・・統制機構第十三階層支部。それがこのカグツチの最上層だ。今はレイ大佐の指示の下、厳戒態勢が敷かれている。そんな中に乗り込むなど、まともな神経の持ち主は考えないだろう。
だがシュテルは速度を緩めることなく走った。
やがて行く手に、統制機構治安部隊の築いた術式バリケードが見えてくる。そしてその後方、部隊の中心には対人対術式広域制圧兵器が配置されていた。
制圧兵器―――イカルガ戦役でも強大な威力を誇った殺戮砲台。あれが人間に直撃したならば・・・・
「―――避けろッ!!」
僕は咄嗟に叫んだ。
それと同時に、砲門が火を噴いた。膨大な魔素の奔流が襲いかかる。その照準は違わずあの二人を捉えていた。
狂ったような光の渦が、瞬く間に二人を呑み込んだ。
余波が僕にも襲いかかる。
咄嗟に術式結界を自分の周りに展開した。だが衝撃が僕の体ごと吹き飛ばす。
光。熱。衝撃。
爆発で剥がされたアスファルトが、まるで木の葉のように舞い飛ぶ。その巨大な破片の一部が、僕をめがけて迫った。
―――ユキ!
一瞬、何故か僕はユキの気配を感じた。
僕の意識は、そこで途絶えた。
全身が痛い。
指先一本動かすだけで、痛みが神経を遡り全身を支配する。
情けないような呻き声が僕の口からこぼれ、僕はそれで目を覚ました。
目に飛び込んだのは薄靄の掛かった青空と、まるで―――まるで空を切り取る爪のような、アスファルトと瓦礫の山。
そして僕を見つめる紅い瞳だった。
「トウヤ、大丈夫?」
ユキが僕を覗き込んでいた。
息が止まるかと思った。
薄く青い空を背景に、ユキがとても美しかった。
僕は慌てて身を起こした。
周囲は瓦礫の山。シュテルの姿が無かった。
「ユキ、・・・僕を助けてくれたのか―――」
「トウヤのこと、放っておけるわけないよ。―――兄さんとは、はぐれちゃったけど」
そう言って微笑むユキは、全身汚れてボロボロだった。それでもユキは美しかった。
「でも大丈夫。兄さんはきっと僕を見つけてくれるから。それよりもトウヤ、体、大丈夫?」
ユキの手が、優しく僕に触れた。そこからユキの温もりが伝わってくる。
久しぶりに見るユキは、相変わらず儚げで、それでも美しかった。憂いを帯びた優しい微笑みに、ほんの一瞬だけ、僕は今の状況を全て忘れてしまった。
―――この人を護りたい。
いつの頃からか・・・いや、初めて会った時から僕の胸に浮かんだ願い。
「僕は大丈夫だよ・・・そんなことよりも、ユキ・・・君の兄さんが君を連れて、事件を起こした。統制機構に通報があった。何人かの衛士がやられてしまった・・・一体何があったんだ?いや、君は・・・」
ユキは僕の言葉に表情を曇らせた。そして悲しげに眼を伏せると、顔を逸らし背中を向けた。
誰かを庇っている。誰か―――他でもない、兄を。
「シュテルに無理やり連れて来られた。そうなんだろう?あいつ、何を考えて―――」
「違うんだ、兄さんは―――」
シュテルの名を出すと、思った通りユキは僕の方を向いた。
その眼差しは抗議というよりは、哀願に近かった。
「兄さんがひどいことしてしまったのは知ってる。でも、僕の大切な兄さんなんだ。お願いだから、兄さんを悪く言わないで。兄さんは僕の為にあんなになってまで・・・兄さんは悪くないんだよ・・・」
ユキの言い訳。子供のような言い訳。
「―――ユキは本当にシュテルの事、好きなんだね」
僕は思わず呟いた。笑えただろうか。頬が引きつっただけかもしれない。
ユキが僕の顔を見上げて、何か言いたそうに口を開きかけた。でも何も言わず口を閉ざし、俯いてしまう。
「―――もう、行かなきゃ。兄さんが心配するから。トウヤも、みんなが探しているよ」
俯いたままユキが背を向ける。
遠くで複数の声が聞えた。捜索の声。治安部隊が近づいている。
僕はユキの腕を掴んでいた。
「ユキ、僕と一緒に行こう!このままじゃ、君は―――」
ユキが、肩越しに僕を振り返る。
笑っていた。悲しい笑顔だった。
「―――ありがとう、トウヤ。でも僕は、兄さんの傍にいてあげなきゃ」
ユキはやんわりと僕の手を振りほどいた。
力はこもっていなかったのに、僕は弾かれたような衝撃を覚えた。
瓦礫の山の上を、ユキが軽い足取りで歩いていく。
「ユキ!」
そんな背中に、僕は声を振り絞った。
「僕はユキを護りたいんだ!君にはシュテルだけじゃない、僕が・・・!」
ユキの肩が一瞬揺れた、そんな気がした。
けれどユキは振り向かず、そのまま瓦礫の向こうへ消えた。
薄靄の掛かる、空の青へと。
望んだものは、いつも手が届かなかった。
空の青が、連れて行ってしまうから。
それでも、僕は諦めない。
空の青は、やがて暗い黒に沈んでしまうのだから。
SIDE. TOUYA Fin. NEXT [SIDE. YUKI] ...to be continued...