ユキ。
 あの空へ至るまで、
 俺はお前に幾つの笑顔を与えてやれるだろう。


 冷たい。
 頬を濡らしたのが空なのかユキなのかも分からないまま、俺は目を覚ました。
 ―――ユキは?
 傍らに目をやると、ユキが小さく蹲るように眠っていた。
 泣いていたのは空だった。そもそも、ユキが俺に涙を見せることはなかった。いつも、笑っていた。
 寒さに身を縮ませながら、俺に寄り添ってくるユキ。その閉ざされた瞼の中に何を見ているのだろう。過去か、惨めな今か。それとも―――見えない未来か。
 未来。恐ろしいと思う。俺はその未来に、ユキの傍に映っているのか。
 俺とユキはただ二人、冷たい路地裏で息を潜めていた。
 汚れてしまったユキの髪をそっと撫でる。
 ユキにはまた、辛い思いをさせてしまった。醜い豚の手から、俺はまたユキを守ってやれなかった。
 俺が目を離した隙に、気を許した隙に、昔なじみのヤクの売人がユキに手を出そうとした。
 済んでのところで俺が気付いて、そいつの首を切り飛ばした。
 何が起きたのか分からないまま茫然としたユキを抱えるように、俺はまた路地裏に逃げ込んだのだ。
 今、二人きりになってやっと安息が訪れている。
 空はまだ遠い。
 それでも絶対に・・・ユキ、一緒に空に行こう。








 カグツチ―――世界虚空統制機構の恩恵を受けた、階層都市の一つ。人々は統制機構の下、安息と平穏を与えられ暮らしている。
 ・・・それを受ける立場に生まれつく幸運に恵まれたのならば。
 その幸運を得られなかった連中は、階層都市の裏に追いやられる。
 オリエントタウン。その華やかな装いの中に秘めた暗がり。『箱(ラァジィシャン)』と呼ばれる裏界隈が、俺とユキの生まれた場所だった。
 父、というものがいるとするなら、『箱』の外からやってきた真面目な行商人だ。外渡り故に『箱』の勝手を知らず、とある美しい娘を愛し抱いた男だ。
やがて娘の胎から俺が生まれ、男はやがて娘を愛するようになった。
 それから数年の間、この『箱』の片隅でささやかな幸せを築いたのだろう。
 だが娘は『箱』にのさばる組織の一つ、『K虎(ヘイフー)』の幹部の情婦だった。夫である男にそのことを告げられず隠し続け、組織からも姿を隠し続けていた。
 だが、組織『K虎』は手足が長かった。その爪牙から逃れられた獲物はいなかった。
やがて男は落とし前をつけさせられた。情婦を寝盗られた腹いせによって、下水に無残な姿を晒すこととなった。
 娘は俺を連れて、『箱』の中を死に物狂いで逃げ続けた。だが『箱』と現実は、彼女たちに容赦はしなかった。
 裏切り、欲、侮蔑、・・・『箱』の汚物は何も持たない弱い者たちに降り注いだ。
 娘は・・・母は、逃亡生活を始めてすぐに、追い詰められた心を癒す為に『花』と呼ばれる薬に溺れていった。
ヤク、ドラッグ、マリファナ、コカイン―――要するにそういう類のもの。魔素を元に『K虎』が作り売りさばいていた。
『花』はその中でも比較的安く手に入り、あらゆる苦痛や悲しみ、負の記憶を取り払う効能を持っていた。そして安上がりのコストの割に依存性が恐ろしかった。
母は『花』に身を売って悼みと痛みから逃げることが出来た代わりに、男が愛した娘であることを、俺の母であることを失った。
 ほどなくそんな状態の彼女が産み落としたのがユキだった。
ユキを産んだ母は、幻に抱かれたまま逝った。
母がユキに遺したのは、『花』に蝕まれる以前の頃の可憐な美しさと、『花』の素材―――魔素に侵され歪んだ体だった。
 ユキは魔素の影響で身体に男と女を備えていた。そして身体の色素も薄かった。小さい頃から妙に大人の目を引く存在だった。
 母を失い、そんなユキを抱えたガキの俺は、しばらく路頭に迷った。そのままではおそらく野垂れ死ぬのがオチだっただろう。だが運良く俺たちは、すぐに同じような境遇のガキが集って出来た溜まり場を見つける事が出来た。
 そこでは年長のガキが中心となって、ガキなりのネットワークを作って生きていた。俺達は、その年長のガキの一人に偶然見つけられ、仲間に加えられた。
 食事、寝床。生きていくのに最低限の物を、ガキ同士協力し合って確保していた。赤ん坊だったユキを、俺はそこのガキたちと一緒に育てた。
 だが所詮はガキの集まりだった。何年か経つうちに、ある者は殺され、ある者は病にかかり、周りのガキたちは数を減らしていった。
 そんな中、俺とユキは運よく生き残っていた。
 春を宿したように淡く薄桃に輝く髪、柔らかな頬、細く白い手足、鈴音のような声。年が経つにつれユキは・・・やがてとてもきれいになった。
 俺が14才の頃だった。
 育った溜まり場はマフィア同士の抗争に巻き込まれて潰されていた。
 何とか生き延びた俺たちは、再び『箱』の片隅でその日その日を凌いでいた。
 その頃、俺とユキを拾って養ってくれたある情報屋がいた。母が死んでから、『K虎』が俺たちのことなどもう忘れただろう頃、その男は箱の中から俺たちを拾った。
 初めは警戒した。大人なんて信じる気にならなかった。ガキの頃から見てきたのは、大人の汚い一面ばかりだった。
 だがその男は俺たちからなけなしの食料を奪い取るでもなく、狩りの的にするでもなかった。潰れかけたボロいアパートに連れて行き、とても食えたものじゃないが無いよりはマシな飯を食わせてくれた。
 男は俺たちに、自分の家と思え、と言った。
 信用するつもりはなかった。どうせ何かに利用するつもりだろうと疑ってかかっていた。
 それでも、俺もまだガキだった。心のどこかで、まだ『家族』や『愛情』、『慈しみ』なんていうものがこの世に存在すると信じていた。
 そして、ユキもまた。
 ―――僕たちとおじさん、本当の家族みたいだね。
 ユキはそう言って嬉しそうにはしゃいでいた。
 大人の汚い争いに巻き込まれ、家族だったガキのコミュニティを失ったユキ。
 俺の心の中の甘さと、そのユキの笑顔に、いつしか俺の警戒も弛緩していった。
 だいたい男は仕事で俺とユキを家に置いて出かける事が多かったが、俺も家計を助けようと働きに外に出るようになった。
 だがある日、俺が仕事を終え外出先から戻った時、ユキが小さなリビングに力なく倒れていた。
 無理に引き剥がされた衣服がユキの足に絡まりついていた。か細い脚の間からは、白く濁った残滓がまとわりつき、周囲には生臭い匂いが立ち込めていた。
 俺はそれを凝視していた。青白い頬で目を閉じたままのユキ。汚れた床。汚された、ユキ。
 ユキの傍らに立っていた男が言った。家族だと思った、男が。
 ―――お前たちは俺の子だ。可愛い、可愛い子だ―――
 そのときの男の顔を良く覚えている。長い間欲しがっていた玩具を、ようやく手に入れた子供のような顔だった。
 男は俺のほうに手を伸ばしてきた。息からは酒の匂いがした。
 ―――裏切られた。その男の顔は、声は、かつて母を追い詰めた大人だった。些細な理由でガキの仲間を殺した大人だった。
その瞬間、俺の中で何かが破裂した。
 伸ばした手を振り払うと、男の形相は憤怒のそれに変わった。
 ―――お前も大人しく言うことを聞け。
 俺は応える代わりに、男に掴みかかった。
 死んだように動かないユキの傍らで、激しいもみ合いが続いた。
 男の拳が幾度となく俺の頬、腹、肩を打った。どこから流れたのかも分からない血の味、いや・・・涙だったかもしれない。それもよく覚えている。
 男の罵声。俺の悲鳴。
 腹を蹴られ、息が詰まった。苦しくて、床に這い蹲った。恐ろしかった。
 男は容赦なく脇、背、尻を蹴った。初めて己に殺意が向けられ、俺は痛みと恐怖に身を竦めた。
 命乞いの言葉が口から出かかった時、倒れたユキの顔がもう一度俺の視界に入った。
 ユキ。きれいなユキ。男の精液で汚れたユキ。
 そのあとのことはあまり覚えていなかった。
 俺はいつの間にか男に馬乗りになり、男がいつも持っていたナイフを手にしていた。血と涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった視界に男を見据え、俺はそれを振りかざした。
 そのときの男の顔をよく覚えている。手に入れた玩具が目の前で壊れてしまった子供のような顔だった。
 ナイフを男の喉に突き立てた。だが力が足りず、思ったよりも弾力のある感触に俺は戸惑った。もがく男の手が俺の手を捉えた。だがそれを振り払い、もう一度。突き立てた。そして、もう一度。もう一度。もう一度。もう一度。
 そのときの男の顔をよく覚えている。その顔は・・・・・何故か知る由もない、怯えて見上げるユキに重なった。
 ―――ユキ。怯えているのか。大丈夫、お前を怖がらせるものは俺がやっつけるから。
 男は血と涙に汚れた顔で死んでいた。
 その横に、ユキが倒れていた。
 許せなかった。
 俺は男をリビングの隅に蹴り飛ばした。男の身体は力なく転がった。
 ―――ユキ。
 ユキは変わらず、男に汚されたまま倒れていた。
 許せなかった。
 興奮が全身の血を沸騰させていた。自分の股間が、滾るように猛っているのが分かった。
 俺はユキの脚を掴むと、精液で汚れたユキの脚の間に触れた。
 暖かかった。そこにあるのは、間違いなくユキのぬくもりだった。触れた瞬間にユキの女陰がひくつき、俺の指と触れて卑猥な音を立てた。
 ユキの身体を引き寄せると、俺はユキの、男で汚れた中に容赦なく熱く猛ったそれを挿れた。
 包まれる。ユキに包まれていく。その感覚が、俺を満たした。
 腰を動かすたびに、ユキの中からあの男の残りが溢れた。ユキの中は熱くうねり、俺に絡み付いてきた。
 この時の気持ちを、俺はよく覚えている。
 満たされていた。汚されたユキを、俺できれいにしていく感覚。
 何度も突き上げるとユキが小さく呻いて、俺はユキの中に射精した。
 ―――にい、さん。
 ユキの唇が俺を呼んだ。
 俺はユキを強く抱きしめた。ユキ、俺の大事なユキ。俺が守ってやる。汚いものは、俺が全部拭ってやる。
 ユキが目を覚ます前に身体を拭ってやり、二人で情報屋の住処を出た。



 それから、俺たちはまた路上で二人きりになった。
 ユキの為だったら、俺はどんなことでも出来ると思った。だから『箱』の中でも、二人だけで生きていけると思った。
 だが『箱』と現実の他に、俺たちが、ユキが生きていくには壁があった。
 魔素中毒症。ユキは母の胎内にいるときから魔素に侵されていた。『箱』の中では、下層から立ち上ってくる魔素に晒され続けてしまう。
 『箱』で暮らしていれば、中毒患者の末路は嫌でも知っていた。ある者は幻覚と妄想に狂い、自ら全身の皮膚を掻き毟って果てた。またある者は、生きながら身体が腐敗していき、最期まで狂えずに死んでいた。またある者は、以上発達した骨格に皮膚が破られ、徐々に異形と化しながら死んでいった。
 このままではユキには、確実な死が訪れる。それも、苦痛にまみれた悲惨な形で。
 ユキを助ける為には、階層の上、魔素に侵されていない場所に行く必要があった。富裕階級の連中だけが暮らすことを許される、空に近い場所。ユキを助けるには、何としてもそこに行かなくてはならなかった。そしてそこで暮らすには莫大な金が必要だった。
 金。これさえあれば、何でも買える。何でも変える。人の命も、人生も。
 それを手っ取り早く手に入れるためには、組織という後ろ盾が必要だった。
 ユキを守る為に、俺はかつて父と母を奪った『K虎』に身を寄せた。
 『K虎』はあっさり俺を受け入れた。俺が殺した情報屋は『K虎』も始末を付けたがっていたことを後で知った。そして『K虎』は俺の両親の背信行為を俺が贖うならと、俺とユキも保護すると約束をしてくれた。
 それから俺は、『K虎』の手先として働く日々を送った。『箱』の路上よりは幾分マシな新しい住処を与えられ、ユキはそこで俺の帰りを待った。
 『K虎』の仕事は、まさに絵に描いたような暴力組織のそれだった。父を奪ったように組織の裏切り者を抹殺し、仕入れた『花』を母のような女たちに売り捌いた。敵対する組織の情婦と接触し、彼女もろともその幹部を葬った。
 ある時、俺は『K虎』で面倒を見てくれた幹部に呼び出された。奴は『花』で得た金巡りの管理を任されていたのだが、その頃『花』の出回り量に対し組織に入る金が合わない、と頭から目をつけられていた。
 幹部が俺に告げた仕事。それは、組織の金を横領している裏切り者を始末すること。その標的が、当時俺が組んでいた相棒だった。
 そいつは幹部の目を盗み売人と通じ、金を着服していた。だがそいつに恩義の欠片もない売人はそいつから見返りの報酬を受け取ると、さっさと幹部にタレ込んだのだ。
 掟を破る者には罰を。
 それがルール。逆らえば『箱』では生き延びられない。
 俺はそいつの潜伏先を突き止めた。そこにはそいつの妹もいた。
 そいつは観念していた。元相棒だった俺に対し、奴は自分の妹が病弱であることを告げた。そして妹の入院資金でどうしても金が必要なこと、妹の病気さえ治せるなら自分はどうなっても良いと訴えた。
 ―――お前なら分かるはずだ。お前にも・・・
 そいつが言った。
 俺はそいつの目の前でその妹を嬲り殺した。見逃してもいずれ病死するか、組織の下っ端に輪姦されて棄てられる。目に見えていた。
 同情した?いいや、違う。
 俺は奴から生きる意味を奪ってやっただけだ。
 ―――お前にも弟がいるんだろう。
 そいつの泣き叫ぶような悲鳴が聞こえた。
 俺はそいつも殺した。予定通りに。
 奴のどんな哀願も罵倒も耳に入らなかった。全てはユキのためだ。
 ユキに比べればそいつの妹など価値がない。そいつの目的など意味がないのだ。
 なのに、そいつはまるで妹とユキが同じだと言おうとした。
 許せなかった。
 ―――ユキはお前の妹なんかとは違う。ユキをそんな汚らしいものと一緒にするな。
 何も言わなくなった肉塊に俺は吐き捨てるように言った。
 ばかばかしい。俺が同情するとでも思ったのか。
 『K虎』での仕事をこなしていけば、やがてすぐに大金が得られる。上の階層に出られるだけの金が。
 それで充分だ。他の事情など知らない。ユキの為なら、どんなことでも許される。
 俗に俺のような奴をひとでなしと呼ぶんだろう。
 それでもユキは、笑って俺を待っていてくれる。少しずつ魔素に体を蝕まれながらも、ユキだけはきれいなままだった。
 ユキ。俺の大切な、ユキ。
 ―――ねえ、にいさん。シュテルにいさん。にいさんがそばにいてくれるなら、ぼくはほかになにもいらないよ。だから、はやくかえってきてね。
 ユキの声が聞こえる。
 小さく歌を歌いながら、小さな住処で俺を待っている。
 初めのうち、俺は不慣れな仕事に怪我をして帰ることが多かった。
 俺がどんな仕事をしているのか知らないユキは、そのたびに怒ったような悲しむような表情を見せたが、絶対泣きはしなかった。
 俺がユキの為だから、と言うと、ぼくはだいじょうぶだよ、と笑った。それを見て、俺も笑った。俺も大丈夫、と。
 ユキを守っているつもりで、俺はユキに守られていた。
 ユキがいるから、俺はどんなことでも耐えられた。
 必ずユキの元へ帰ると誓っていたから。あの笑顔が俺を迎えてくれるから。



 俺とユキとで、『K虎』の元での生活が軌道に乗り始めた頃。
 あるとき、統制機構の連中が俺とユキの住処の近くに現れた。
 連中は、時折『箱』に現れては、さも仕事をしているかのように取締りと称して適当にそこいらを小突いて回り、保護と騙って適当に魔素中毒者を見繕って連れ去っていく。むろん、『箱』の組織たちは狡猾で、統制機構の一部の連中も貪欲だ。時折金を潤滑油として、上手いこと事を運んでいく。
 だがその時現れた統制機構の隊員たちは、そんな潤滑油をまるきり無視していた。
 その連中を率いていたのが、トウヤという男だった。
 まだ二十に満たない年頃で隊を率いた奴は、ユキのいる住処を目敏く見つけ出した。
 そして奴はユキを見てすぐに「魔素中毒者として然るべき施設へ収容する」と言い出した。
 ユキを連れて行く―――そんなことが許されてたまるか。
 幸い俺はその場に居合わせていた。
 奴は俺がユキの兄だと知ると、俺を愚かだと罵った。今すぐにでもユキを治療施設に入れるべきだと。ここに居させるのが間違いだと。
 だが奴の口車に乗せられるつもりはなかった。統制機構の連中は、そうやって末端から何もかも奪っていくだけだ。
 俺は奴の言葉に、いつしか自らの武器としていた大剣で返答を見舞った。
 奴はそれを帯刀していた長刀で受けた。
 そのまま、無言で互いに切り結ぶ。
 斬る。弾く。薙ぐ。流す。
 だが奴と俺の攻防は、すぐにケリがついた。
 奴は単純だった。冷静を装ってながら、太刀筋に内心が浮き彫りだった。
 鍔迫り合いの後、わざと力を抜いた。奴は見事にバランスを崩した。そのまま横凪に剣でなぎ払うと、奴はものの見事に転倒した。
 ―――僕の負けだ。
 奴は顔を歪めながらそう呟くと、隊を率いて去っていった。
 だが、それだけでは済まなかった。
 数日後にはまた隊を連れて、奴は現れた。
 その後何度打ち負かしてやっても、奴はしつこく現れては「ユキを連れて行く」と言った。
 奴のおかげで、俺とユキは住処を幾度か変える事になった。
 それでもユキは俺と離れたがらなかったし、俺もユキを統制機構なんざに任せるつもりもなかった。
 奴とのやり取りは堂々巡りのまま、いたちごっこだった。
 苛立ちが募った。
 誰だろうが、ユキを俺から奪うのは許さない。
 それでも俺が奴を殺さなかったのは、奴は必ずユキの目の前に現れたからだ。
 そして・・・ユキが、奴を嫌がっていないからだった。
 ―――あのひとはわるくないよ。にいさんといっしょにいたいことをわかってもらえないのはかなしいけれど。
 そう言ってユキは、悲しげに微笑んだからだった。


 そうして『K虎』の仕事と、トウヤの相手と、ユキとの日々を過ごした。
 そんなある日俺はヘマをやらかした。
 俺はいつもどおり溜まり場に顔を出し、それから『箱』に繰り出し、運悪く組織の商売敵連中と出くわしてしまった。
 数は四、こっちは俺だけ。
 腕っ節には自信があった。だが誤算があった。
 連中はクスリをキメていた。しかも感覚を薄くするタチの。どんなに打ち込んでも連中は怯まなかった。
 さながらゾンビのようだった。連中は傷を負う度に興奮をもよおしていた。
 予想外だった。
 俺の焦りにつけいられ、形勢はすぐに逆転した。
 両脇から二人掛りで固められ、一人の男に腹を蹴られた。五回。
 口腔に広がった血の味を覚えている。
 やがて両脇の二人も俺を離すと、今度は三人掛りで襲ってきた。
 起き上がろうにも痛みが身体を支配した。
 全身の骨が悲鳴を上げた。
 一人が大物のナイフを手にしていた。それを躊躇わず振り下ろしてきた。
 胸を抉られる痛み。口から悲鳴が漏れた。
 奴がもう一度振りかざした。刃が光の弧を描いて閃いた。
 首に痛み。驚くほどの赤が迸った。
 飛沫が俺の視界を赤く染め、そこから先の記憶がなくなった。


 気がつくと俺は、『箱』の薄汚れた路地裏に転がっていた。連中はいなくなっていた。
 殺したのか、殺されたのか。
 まるで時間が止まったかのように、その場所は暗い静寂に包まれていた。
 見上げる空はどす黒く、まるで降り注ぐようだった。
 体中から力が抜け、アスファルトの冷たさが徐々に体を蝕んでいく感覚。
 大地が俺の命を吸っていく感覚。
 次第に弱まる鼓動だけが俺の聴覚を支配していた。
 ―――死。
 そいつは足音も立てずに忍び寄ってきていた。
 俺は足掻いた。身体は動かなかった。
 ―――ユキ。ユキを置いて逝けない。俺がいなければユキは―――
 考えただけでも恐ろしかった。
 死が恐ろしかったんじゃない。ユキを遺して逝くのが怖かった。俺がユキと離れてしまうことが怖かった。ユキが俺から離れる―――それは死すら許せなかった。
 ―――死を恐れぬお前が、そんなにそれが恐ろしいのか―――
 声が、聞こえた。
 いつの間にか俺を黒ずくめの男が見下ろしていた。その男は俺に良く似ていた。
 その男は赤い右目を爛々とさせていた。
 死、そのものだった。
 俺の姿をした、死だった。
 ―――ならばチャンスをやろう。お前の望む涯てを見るが良い―――
 黒ずくめの男は笑って消えた。
 いつの間にか俺は空をただ見上げていた。淀んだ空。
 痛みはどこかに消えていた。傷は血を流すことをやめていた。
 まだ生きていた。
 身体を起こすと、俺の上から何かが落ちた。
 黒い表紙の本が一冊。
 魔道書だった。
 手にした事もなかったが、すぐに分かった。
 魔道書。統制機構が管理しているもの。圧倒的な力。裏世界の人間が喉から手が出るほど欲しがっているもの。
 何が起こったのか、わからなかった。黒ずくめの男は跡形もなかった。
 俺の手には黒い魔導書と謎が残った。
 だがどうでもいい。ユキを護る力となるのなら。


 程なくして俺は『K虎』の雑用係から『紅棍(ホングァン)』と呼ばれる戦闘要員に抜擢された。
 もちろん手に入れた魔道書の影響が大きかった。
 魔道書はチンピラ風情が手に入れられる代物ではなかった。それどころか、組織の幹部すら大金を積んでも欲しがった。
 もちろん統制機構にタレ込まれればパクられる運命にあった。だがそれをするものなどいなかった。隙を見て奪おうとするものが殆どだった。そしてその全員がそれを叶えられなかった。
 持つもの、持たざるもの。この世界では持つものが優位に立った。
 そして俺は持ってた。他の連中は持たなかった。この差はでかかった。
 住処も、通りに面した片隅ではなく、『K虎』幹部たちの住む区域により近い場所へと移された。そのおかげで、トウヤも今までのように手は出しにくくなり、奴の詮索から遠ざかることが出来た。
 この頃には、「シュテル」という外渡りの父が名づけた名を揶揄する連中はいなくなった。
 『K虎』をはじめとする俗にマフィアとされる連中は、同血族の繋がりが強い。その反面、外渡りに対しては一種の偏見を持っていた。俺は容姿と、いかにも外渡りの血を匂わせる名前から、幹部や下っ端たちにまで意味が分からない罵倒を受けたことがあった。
 だが、もう俺を罵る奴はいない。ここでは力がすべて。持つ者が全て。
 『K虎』からは働きに応じた分だけ報酬が出た。俺は『紅棍』の中でもよく働いた。数年前では想像もつかない額の金が、手元に入ってくるようになった。
 だがもっと、もっとたくさんの金が必要だった。
 それでもこうしてこのまま、俺たちは少しずつでも魔素から遠く、高くなっていけるはずだった。
 ある日、俺は『K虎』の若頭であるツクモという男に呼び出された。
 ツクモは『K虎』の頭の実子で、次期頭だった。そして絵に描いたような「嫌な奴」だった。誰もが自分に従順な犬だと信じて疑わない、ニヤニヤと見下すように薄笑いを浮かべた狐のような男だった。
 奴に呼び出されて訪れた部屋は、豪奢な絨毯と調度品、奴の手下と、それから派手な女達が侍っていた。
 女たちの意味深な視線とツクモの含み笑いを浮かべた顔に虫酸が走った。だが呑み込んだ。
 そこで奴が俺に告げたこと。
 ―――お前、ずいぶん可愛い女と暮らしてるんだな。俺にその女をまわせ。
 一瞬訳が分からなかった。
 何を言っている?
 ツクモを見ると、奴の口元の笑いが深まった。
奴の顔からユキの事だとわかった。
 奴はユキを自分によこせ、と言ったのだ。
 もちろん、俺が承諾する訳も無かった。
 これが他のことであれば、俺はにべもなく従っただろう。例えそいつのケツを舐めろ、と言われても。金のため。ユキのため。
 はっきりと断った。
 できもしない相談だった。悩むことすらしなかった。
 ツクモのこめかみに血管が浮かび、手下どもが色めき立った。
 もう一度、ツクモは奥歯を噛み殺しながら言った
 ―――意味が分からないな。そんなに独り占めしたいほどイイのか?
 奴は余裕面に時折口の端を引きつらせていた。まるで俺の反応を予想していなかったように。
 ―――魔導書持ちでもコネがなけりゃ伸し上がれねぇ世界だ。俺が上にクチをきいてやる。お前をもっと出世させてやるよ。その代りに―――
 ユキをよこせ、というのだ。
 何を言ってるのか分からなかった。無性におかしくなって、俺は声を立てて笑った。
 ツクモの顔色がみるみるうちに赤く変わった。それでも必死に堪えて笑顔を繕っていた。それがさらに、俺を刺激した。
 手下ども―――同僚諸先輩の『紅棍』たちが、俺を叱咤する声が聞えた。
 連中は、俺がビビって従うと思っていたようだった。もしくは、金と権力に尻尾を振るとでも。
 ユキをそんなモノの代わりに差し出すと、真剣に思っていた連中がばかばかしかった。
 俺は言ってやった―――従う理由はどこにもない、ユキは渡さない。
 ツクモが何か言うよりも、他の『紅棍』たちが殺気立った。
 余裕を装っているツクモ自身、血走った眼で笑った。それが合図だった。
 相手はツクモ以外、『紅棍』が四人。女が三人。
 どいつも俺と同等か、それ以上の力があった『紅棍』たちだ。どいつも裏ルートで入手した魔導書を所持していた。
 確かに俺の魔道書は強かった。それでも、今まで複数の『本持ち』を相手したことなどなかった。
 勝算などなかった。勝てるかどうかよりも、許せなかった。こいつらは、俺からユキを奪おうとしている!!
 怒りが俺の血管を伝い、魔導書からどす黒い魔力を引き出していた。俺は初めて、それを『K虎』に向けて放った。
 一人、二人、三人。辛くも倒していく度、俺の体から血が流れた。
 そして、四人目。
 俺があっさり痛めつけられることを期待していたのか、ツクモの表情が変わった。引きつった笑いで眺めていた奴が、憤怒をあらわにした。
 悲鳴を押し殺していた女たちは、我先にと逃げ出していた。
 ツクモが何かを叫んで腰に忍ばせた銃を抜いた―――術式の施されていない、旧型のものだった。インテリを気取ったシロウトが持つ銃。実践向けでは無かった。
 ―――この、裏切り者が。
 ツクモが叫んだ。
 裏切ったのはどいつだ。ユキに手を出そうとしたからだ。
 奴の銃口が火を吹く前に、奴の首と銅を分断した。
 転がる奴の首。まだ憤怒を浮かべたままだった。
 俺は生き残った。
 どくどくとあちこちから血が流れた。
 言いようのない興奮が俺の体を支配していた。
 股間が固くなっていた。
 まるで―――まるであの情報屋を殺した時の様な。倒れたユキを見た時の様な。
 流れる血の代わりに俺の体に何かが流れ込んでくるような気持ちになったのを覚えている。
 黒い魔導書から、その何かが流れ込んでいる気がした。
 俺はそのまま、気がつくと住処への道を走っていた。
 ―――ユキ。
 無性にユキの姿が脳裏に浮かんで離れなかった。
 ユキの肌が。ユキの微笑みが。ユキの感触が。ユキの声が。ユキの。ユキ。ユキ。
 住処の扉をくぐると、ユキがいた。
 そして、男たち。ツクモの手下の雑魚ども。
 そのうちの一人がユキにしゃぶらせていた。苦しそうに咽ぶユキの頭を、強引に押し付けて。
 他の連中が、仰向けになって上体を捩じるようにされたユキに群がっていた。
 一人の男が、ユキを後ろから抱えるようにしてケツの穴に挿れていた。
 もう一人の男が、ユキを前から犯していた。
 ユキの口とケツと膣口は醜悪な肉棒に塞がれ、白濁とした液が漏れ出ていた。
 くぐもった声と濡れた淫猥な音、下卑た男の上気した声が響いた。
 ―――てめぇ最高だぜ。兄ちゃんにゃ勿体ねぇ。
 無理やり身体を開かされ、しゃぶらされたユキ。それでもユキの身体は、与えられる快楽に打ち震えていた。ユキの可憐な男根が蜜を滴らせていた。
 ユキ。きれいなユキ。
 その潤んだ瞳が開かれ、俺を見た。
 その瞬間、目の前が真っ赤に染まった。
 ―――てめぇ、何でここに。
 連中の一人が何か喚いた。俺がツクモに従ってユキを渡すと思ったのか。
 ツクモは俺が断るとは微塵も考えてなかった。だから手下に命じて、ユキを連れていく算段をしていたようだった。
 馬鹿な奴らだった。ユキを連れていくのは、誰であろうが許さない。
 ツクモの雑魚たちは、『紅棍』に比べれば造作も無かった。
 連中は物言わぬ肉の塊になって周囲に散らばっていた。
 血の匂いが鼻を突き、俺を興奮させた。魔導書からは、まだ際限なく力が満ちてきている気がした。
 ユキは力なく横たわっていた。かすかに開かれた瞳は涙で潤んでいた。
だが、ユキは俺を見つめていた。
 自分の耳障りな程の荒い息遣い。痛いほど勃起した股間。
 ユキが身を捩じらせると、その脚の間からあの雑魚共の精液が滴った。
 それでもユキは俺を見つめていた。まっすぐに。
 鼓動が響いた。ユキをめちゃめちゃに犯したい衝動に駆られた。
 だけどユキが俺を見つめていた。ただ、まっすぐに。
 ユキの目には、俺が他の連中と同じように映ってしまうのか?
 そんな思いが過った。
 その時、ユキが体を起こした。ユキは俺の傍まで這いずってくると、勃起した俺の男根を服の下からひり出した。
 そしてゆっくりと、まるで愛おしそうに捧げ持ち、それを舐めた。
 濡れた音を立てる、ユキの舌。
 ユキは俺を舐めるだけでなく、先端から咥え込んだ。熱を孕んだ湿った感触が俺のソコを包んだ。
 たどたどしいユキの舌が、唇が、俺の脳髄を痺れさせた。
 やがて俺がユキの口の中に吐き出すと、ユキはそれを飲み干した。
 頭の中で何かが弾けた。まだ、身体の中は黒い興奮で満ちていた。
 ユキを強引にねじ伏せ、四つん這いにさせた。ユキは抗わなかった。
 白い双丘が開かれ、その奥が露わになった。ユキの男根と膣口からはぬらぬらと光る液が滴って、ユキの脚を伝っていた。
 俺はユキの尻の間に顔をうずめ、熱くひくついた肉襞の間を舐めた。
 ユキの溶けるような悲鳴が響いた。普段は聞けなかった、甘く甘く欲情した声。
 襞を指と舌とで押し開いていくと、精液と愛液が溢れた。
 女陰からケツの穴にかけてゆっくりと、わざと音を立てて舐めると、ユキは快感に腰を揺らした。
 ―――にいさん―――
 濡れた声でユキが俺を呼んだ。
 ユキの股間から顔を離すと、ユキの開いた陰唇がひくひくと震え、愛液を溢れさせていた。
 俺はそれに応えるように、濡れたそこに肉棒を押し当てゆっくりと挿れた。
 ユキの肉壁を押しのけていく感覚が、愛液を潜る淫音が俺の知覚を支配した。
 ユキの甘い嬌声。仰け反る背。濡れた細腰。揺れる淡い薄桃色の髪。乱れる切ない吐息。
 きれいだった。
 ―――ユキが俺を包んでくれる。俺にはユキがいてくれる。
 どうして気がつかなかったんだろう。
 組織なんていらない。金なんていらない。
 ―――ユキ。俺にはユキがいる。それだけでいい。
 最初からそれで良かった。何に縛られる必要も無かった。
 ユキの膣が痙攣し、俺はユキの中で達した。何度も何度も。
 そのときだけは、何もかも忘れて俺もユキも快楽を貪っていた。
 でも分かっていた。このままではいられない―――でもせめて今だけは。
 噎せ返るような血と精液の匂いに包まれながら、そのつかの間俺とユキは繋がり続けた。


 それから俺はユキを連れて、住処を飛び出した。
 『K虎』の若頭とその重鎮を殺した俺は、組織にいられなくなった。
 『箱』には追っ手が溢れた。飢えた獣たちがエサを探して終始這い回っていた。
 ユキを庇いながら俺は、数少ない伝を頼りに転々とした。
 そして悉く裏切られた。
 いや、当然といえば当然だった。
 誰しも『箱』の中で孤立して生きてはいけない。獣たちは主人に見放されるのを恐れていた。そして主人の機嫌をとるためにはどんな芸当も厭わなかった。
 組織に、自分より大きな力に逆らえば、踏みつぶされる事を誰も知っていた。
 だが俺にとって組織はもう必要ではなかった。
 ユキがいればいい。ユキが生きられればそれでいい。
 踏みつぶされないだけの力はあった。魔導書の力。黒い淀みの力。あの赤い目の男が笑った―――
 力で解決するだけでは無かった。身体を売ったこともあった。ユキを守るためだと思えば何も感じなかった。
 ユキを守るためなら、どんなことだろうが構わなかった。
 けれど、それではどうにもならないことがあった。
 ユキの命。ユキを蝕む魔素の存在。
 このままでは魔素がユキの命を確実に奪っていくことも分かっていた。
 焦り。時間だけが過ぎた。
 逃走と流転の中で潜伏先を転々とした。
 欲と金と力が支配する『箱』は幾度となく俺たちを追いたてた。
 力で押し切ろうとして、すべてが綻びへ通じていた。
 そしてついに、『箱』に俺たちがいられる場所など無くなった。




 空。
 いつからか、目指す先にあった場所。
 あの空になら、俺たちが生きていける場所がある。
 ユキが苦しまずにいられる場所がある。

 ―――空へ行こう、ユキ。二人だけで。

 俺はユキの手をとり、ゴミ溜めから抜け出した。








 「・・・・さん、にいさん、にいさん!」
 愛しい声が、俺を呼ぶ。
 目を覚ますと、ユキが俺を覗き込んでいた。
 「大丈夫、にいさん?うなされてたんだよ」
 紅い瞳が、不安げに翳った。
 俺はいつの間にか眠っていたようだ。昔の記憶を手繰るように・・・
 ふと、頭の中で黒い何かが笑った。そんな気がした。俺を見つめる赤い片眼が、何かを言い含んで笑っている。
 頭を振って、それを振り払った。
 ユキが不安そうに俺の返事を待っている。
 安心させる為にユキの髪を撫でてやると、ユキはくすぐったそうに微笑んだ。
 「・・・これからどうするの、にいさん?」
 不安を押し殺して微笑みながら、ユキが聞いた。
 俺は黙ってユキの手をとり、立ち上がった。
 まだ、空は遠い。
 けれど『箱』を飛び出した俺たちに、他に行く場所などなかった。

 ―――空に行こう。

 ユキにそう告げると、ユキは柔らかに微笑んだ。



 どこにも居場所はない。
 あの空に、至るまで。




SIDE. STER Fin. NEXT [SIDE. TOUYA] ...to be continued...








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